かつて私は幾度かのエア出勤を経験し、身も心もズタズタに切り裂かれた。現在も、スーツ姿のくたびれたエア出勤者が、公園や路上、映画館やファミレスなど、日本全国津々浦々で、存在しない会社に出勤していることだろう。この世に会社がある限り、エア出勤はなくならない。
この記事ではエア出勤とは何か、基本事項を確認する。同時に、エア出勤者(エアリーマン)が心を平静に保ちながら、この残酷な社会で生き残るための術についても解説する。
エア出勤の定義
エア出勤とはいうまでもなく、会社を辞めたことを同居する家族に伝えることができず、毎日あたかも会社勤めをしているかのように振る舞うことをいう。
エア出勤をしている人をエアリーマンという。
エアリーマンは実際に出勤する会社などないから、公園でコーヒーを飲んで時間を潰したり(もっとも広く知られているやり方だ)、ファミレス、映画館、図書館、ファストフード店などでネットサーフィンをしたり、読書や昼寝などをしたりして時間を潰す。
徘徊もまたポピュラーなエア業務の1つとして知られている。
首都圏近郊に居住しているエアリーマンならば、山手線などの環状線に一日中乗り続けて時間を空費するというやり方もある。山手線に乗って時間を潰すのは都会人の特権であり、地方在住者にはできない時間の潰し方だ。
もし首都圏に住んでいるならば一度は試しておきたい手法であるといえる。
勤め人時代に自家用車で通勤していた場合、どこかの川沿いや長時間停めていても咎められない道路脇やホームセンターの駐車場などで昼寝をする人たちもいる。
エアリーマンに必要なのは強靱な体力と精神力、演技力など
エア出勤の方法は多岐にわたる。
熟練のエアリーマンたちが日夜自分独自のメソッドを研究し、いかに効果的に時間を潰すか、自分の精神衛生上もっとも快い方法は何か、日々練磨している。
その意味で、エアリーマンは職人に近い存在なのかもしれない。自分だけのやり方を常に模索する求道者といえるだろう。
いずれにしてもエア出勤はタフな仕事だ。
細やかな神経と強靭な精神力と体力、現実から目を逸らす能力などが必要とされる。家族にばれないように振舞う演技力も兼ね備える必要があるだろう。
出社する会社がないのに毎朝決まった時間に起床して、決まった時間に家を出る。
爽やかな夏の朝だろうと、布団のぬくもりが恋しい厳冬の朝だろうと、甘えは許されない。出社する会社が実際にあろうが、エア会社だろうが、気を抜いて寝坊してはいけない。
甘えから露見してしまう些細な変化を狡猾な家人は見逃さないはずだ。一度疑われたら、エア出勤中であることがばれるのは時間の問題だ。エアリーマンは常に薄氷の上でぶるぶる震えながら立ち尽くしているギリギリの存在といえるだろう。
エアリーマンの服装
もちろん、服装はいつも通りのいでたちで出社するべきだ。スーツで出社していた人は引き続きスーツを、作業着の人は作業着を着て、カジュアルファッションの人はカジュアルファッションに身を包む。
現役時代と少しも変える必要などない、変えてはいけない。微妙な変化でさえ感付くのが家人というものだ。長い年月を一緒に過ごした家族に対しては、警戒し過ぎてもし過ぎることはない。小さな気のゆるみにより大きな代償を払うことがある点には注意が必要だ。
例えば、歩きやすいからといって革靴をウォーキング用のシューズに変えるのなどもってのほかだ。ネクタイを締めていたのにノーネクタイに替えたら、家人にすぐに指摘される。髪型に無頓着になってもダメだし、鼻毛もしっかりカットして出勤すべきだ。
たとえ、その日一日誰とも会わず、誰とも会話をする予定がなくても、気を引き締めて、勤め人時代と同様に振る舞わなくてはならない。エアリーマンとはそれだけ過酷な職業なのだ。
世界中のすべての場所がエア職場だが……
エア出勤する場所は各々が自由に決められるという意味では自由度の高い職業であるとひとまずはいえるだろう。しかし多くの場合、出勤先は自ずと決まってくる。
自宅の近くは危険であるように思われる。なぜならご近所様の目があるからだ。どこで誰に見られているかわからない昨今、隣の奥さんに見つかり、ご親切にも自分の家人にご報告されてはかなわない。
では、電車を乗り継いで遠方に出勤するのが良いかといえばそれにも一長一短があるのだ。東京都内ならば、渋谷、新宿、池袋などのターミナル駅の繁華街に出れば、知り合いに会う確率は相当低くなる。
都会の喧騒に紛れ、自分の存在を埋没させるのは一見得策なように思われる。しかし財政的なデメリットを考える必要が出てくる。
どこに行くのにも交通費がかかる。それは片道三百円程度かもしれない。社会人にとってはなんてことない金額だ。アルバイトをしている学生にとってもはした金といえるかもしれない。
しかしエアリーマンの日給はゼロなのだ。この事実は見逃してはならないポイントだ。完全に、完璧に、純然に、誰がなんといおうと無給なのだ。だからたとえ数百円の出費でも懐が痛むのだ。
そういう意味でも、交通費をできる限りかけずに、コスパに優れた職場を探さなくてはならない。
エアリーマンの財政状況
企業に所属しているサラリーマンは一日働き、一ヵ月働けば確実に給与が得られる。これがいわゆる「月給取り最強説」である。中には半年ごとに賞与という化け物級の金銭を受け取っている人もあると聞く。政府は賞与に90%の税金を課すべきである。
サラリーマンの安定感は、当人たちが思っている以上に堅固なものだ。社会的な信用にも直結する。他方、エアリーマンは完全なまでに無給なのだ。拘束時間は一般のサラリーマンと同じなのに、である。完全なる格差社会である。
だから、エアリーマンは基本的にいつも財政難に陥っている。もし身近にエアリーマンがいたら、財政支援してあげるのが人情というものだろう。
さらにサラリーマンが周りに同僚や部下、上司など、仕事を相談したり、時には人生の打ち明け話をしたりするであろう仲間がいる一方で、エアリーマンはいつだって孤独だ。独りなのだ。最愛の家族にすら己の境遇を告白できない。これが何よりもつらいことだ。
嘘をついているのは、愛する家族のためなのだ。そして、その嘘が万一露見した場合、最悪の場合は家族が離散することも考えられる。八方ふさがりとはこのことだ。
この状況はどう控えめに見積もっても悲劇だ。私が特に悲観主義者であるわけではあるまい。サラリーマンに比べてエアリーマンの境遇が絶対的に不遇なのは多くの人と意見の一致を見るところであろう。
経済と心、両方においてほぼ枯渇状態に陥っているのがエアリーマンだ。心が折れたとき、どうなるかは推して知るべしだ。
エアリーマンにとっての極秘事項
一般的な勤め人とエアリーマンの間には大きな断絶がある。両者は対局の立場にある。
まず、経済的に格差がある。給与所得がゼロ円とそうではないのとでは大きな違いだ。サラリーマンはたとえ薄給でも、ゼロ円でないことにもう少しプライドを持ってもいい。
社会で承認されるのは、勤め人であって決してエアリーマンではない。自分がやっている仕事が誰のためにもならないと卑下するのはやめたほうがいい。
無職者やニートは誰からも尊敬されないし、誰かの役に立つわけでもない。別に誰にも迷惑をかけていないのに、いつだって白い目で見られる無職者はかわいそうな存在だ。たまたま一時、無職者であるときに犯罪などを犯そうものなら、「無職はこれだから……」とレッテルを貼られる。
一部の人間にとってはエアリーマンは確かに異質な存在といえるだろう。回りにエア出勤をしている友人知人がいたら、物珍しさに酒の一杯でもおごりたくなるかもしれない。ユニークな存在としてある種の畏敬の念を集めるということもあるかもしれない。
しかし残念ながら一般的には、エアリーマンは蔑みの対象となる。毎朝、「見えない会社」に出勤するぐらいなら、自宅で就職活動でもしたらどうだと嘲笑されることもある。早く家族に真実を打ち明けてラクになれと、自白を強要されることもある。
実に素人的なご意見である。
人には絶対に告白できない真実が、確かにあるのである。終生胸にしまっておきたい、暗黒の真実である。エアリーマンにとって、「会社を辞めた」という事実は誰にも告白せず墓場までもっていくべき、極秘事項なのだ。
エア出勤は自己責任か?
円満な家族関係を築けるのは、安定した職業を有しているからであろう。エアリーマンになると、自分がしてきたことを否定したくなる。現在の境遇を呪い、できればこれは現実ではないと思いたくもなるだろう。
実際にこれは現実ではないと考え、ひたすら現実から目を逸らす手法を極める人もいると聞く。現実逃避というのは、よりよく生きていくためには絶対に必要な能力だろう。下手に現実と向き合うと現状よりもさらに悪い方向に転落することは、よくある話だ。
さらに、将来に対する焦燥はちょっと半端ないのではなかろうか。これは現在勤め人として安穏な暮らしを送っている人でも、多少の想像力を働かせれば容易にわかることだ。
存在しない会社に出勤して、誰がどう考えても無生産な一日を送る。誰がどう見ても、最悪な状況だ。将来は真っ暗だ。
勤め人とエアリーマンには厳然とした差がある。断然、勤め人のほうがいいに決まっている。
私にいつか子どもや孫ができたら、絶対にエアリーマンにはなっちゃいけないと教え諭すだろう。図書館や公民館で、エアリーマン時代の「昔話」を語るよう要請されたら、私はそれを快諾する所存だ。
ところで、エアリーマンは本当に自己責任なのだろうか。エアリーマンがどれだけタフな環境で日々働いていようと、それは本人の責任なのだから自分たち勤め人は知ったことではないと本当に言い切れるだろうか。
言い切れるのである。
エア出勤が自己責任の理由
例えば、働きたいのに仕事がなくて働けない、学歴・性別・出自で差別されて就職口が見つからない、勤め先が超絶ブラック企業だったなど種々の理由で無職者になってしまったら、彼らには国や自治体や周りの人間が温かい手を差し伸べる必要がある。
そのような無職者は、全力でそれらのセーフティネットに支えられるべきだ。社会はそのような厳しい状況下にある人たちを救済しなくてはならない。
他方、エアリーマンは事態を独力で突破するべきだ。なぜなら彼らは、自分の意志で「見えない会社」に出勤しているからだ。
勤めていた会社を辞した理由は千差万別だろう。職場でいじめを受けて退職に追いやられた人もあるいはあるかもしれない。リストラにあってしまった不運な人もいるかもしれない。なんとなく気分で会社を退職してしまった、少し能天気な人もいないとは限らない。
しかし会社を辞めた後の行動は、各人が自分の責任の範囲内でやるべきだ。
ハローワークや自宅で求職活動に注力するのも、のんべんだらりと自宅に引き籠るのも自由だ。その自由な選択肢のなかで、エアリーマンを選んだ人はそれを独力で解決しなければならない。
自分で意志したことは、自分で責任を取るべきなのだ。働けないのには外的な原因があるかもしれないが、エアリーマンになってしまった原因を他人にもとめてはいけない。エアリーマンへの就職は自発的に選びとったもののはずだ。
それに、エア出勤は、必ずしも悪いことばかりではないはずだ。エア出勤の経験が人を成長させるという側面もなくはないだろう。私も過去の経験から様々なことを学んだ。私には信念があったから、過去3度のエア出勤は、何とか自死せず最後までやり遂げられた。
ただ、一つ言えるのは、半端な気持ちでエア出勤すると大怪我をするということだ。多くの元エアリーマンは、二度とエア出勤はしたくないと考えるだろう。その気持ちは痛いほどわかる。
エア出勤を経験することで、喪失するものは確かにある。しかし喪失することではじめて成長できるということもあるのである。
エア出勤中のすべての人にエールを贈りたい
私の二十代は、エア出勤とともにあった。あえていえば、エア出勤こそが青春だった。
私の経験を後世に伝えたいと思う。勤め人とエアリーマンは同時的には交わらないかもしれないが、その差は紙一重のものだ。昨日元気に会社に出勤していた人が、今日、エア出勤することになるかもしれない。
これからエア出勤することになるかもしれないすべての人たちへの指針を示したいと思う。「エア出勤するくらいなら、家に引きこもれ」と。
そして、今現在日本全国に存在しているすべてのエアリーマンへ解決策を提示したい。
「早く、就職しろ」と。
まとめ
本当に困っているエア出勤者に対して、かけられる言葉はおそろしく少ない。ほとんど言葉が見つからないと言っていいだろう。金銭を贈ることがもっとも重要であるように思われるが、あいにく、街を歩くエアリーマンは人混みに紛れていて勤め人と見分けがつかない。
おまけに自身がエアリーマンであることを口外するような浅薄な人間は一人もいない。結句、エアリーマンは孤立する。就職するしかないのが、現下のこの残酷な世界での唯一の解決策なのだ。
かつてエア出勤して、半死半生の目にあい、なんとか生還した元エアリーマンから言えるのが「就職しろ」という中身のない言葉だけであることが、この世界で働くこと(エア労働であれ実際の労働であれブルシットジョブであれ)の不可能性を示唆しているとも言えるが、その「示唆」とやらさえ自分自身を慰撫するむなしい行為に思えてならない。